なのはなテレビ

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空と大地の歴史館

「空港をめぐり、この地に刻まれた歴史を後世に伝えます。」

 成田空港は、1966年7月4日に成田市三里塚に建設されることになりました。その時から、地域を守ろうと空港建設に必死で反対した農民やその支援者、日本のために必死に新空港を建設しようとした人々、そして、対立の周囲にいた住民たちの苦悩の歴史が始まり、力と力の対立のなかで犠牲をともないました。
 その後、建設側と反対側との公開討論を経て、成田空港問題について地域も巻きこんだ話し合いが進んでいきます。
 地域と空港をめぐる歴史的経緯とそこにかかわったさまざまな立場の人々の苦悩と想い、これらを複眼的な視点からとらえ、この地に刻まれた歴史をできるだけ正確に後世につたえていくことを目指して当館は設立されました。

「成田空港 空と大地の歴史館」について より

江戸時代以前からあった美しくて豊かな村、戦後開拓されて多くの苦労を乗り越えてやってきた村、そいういう人々の暮らしがあったところに、突然、新空港が建設されることになりました。
予定地に決まった地元の人々はとうぜんながら驚きます。家や農地を追われることになるのですから。地元の理解を得ないまま国がなかば強引に決定したため、その後につづく長い長い対立が生まれることになったのです。ボタンの掛け違え、といわれています。

↑空港公団職員を発見したときなどに、打ち鳴らされたドラム缶。急を聞いてかけつけた農民たちが、公団職員の立入りを拒みます。わたしもそうっと叩いてみました。意外とおおきな音がしました。男性が力一杯叩けば、村中に聞こえるでしょう。


↑反対派の人々。もちろん最初からこんな人たちがいたわけじゃありません。始めは、その土地に暮らしていたふつうの人たちです。でも、ふつうの人たちが国に抵抗することはなかなかむずかしい。どう闘えばいいかなんてわかりません。そこに入ってきたのがいわゆる運動家や活動家の人たち。闘争中に三人の警察官を殺してしまったことで、農民たちのあいだに動揺が広がります。
1970年前後の社会情勢もきちんと展示されていますので、命を奪うほどまでになった過激な反対運動がどのようにして起きたのかもわかるようになっています。反対派の中からも、将来を悲観してみずから命を絶った若い人もでてきました。もう、ほんとに、成田ってすさまじい歴史を経てきました。事実を知ってショックを受けました。

↑わたしがいちばんおどろいた、小学生たちによる「少年行動隊」。こどもたちまでが、反対運動をしていたのです。農民が機動隊と睨み合うなんてことは、あってはなりません。でも、それが現実に起きました。



↑反射していて読みにくいかもしれませんが、この土地に生きた女性の想いが綴られています。
高橋とりさんの詩

木の根の畑の土

思うがままに一筆記す。
何のへんてつもないこの軽い黒土でも
私には、涙も血も汗もしみこんでいる様な土
荒野を切拓き 手に血をにじませ乍ら開拓した土、
いろいろな作物を生産してくれた土。
一家六人を食させてくれた土。
今日の土台を築いてくれた土。
昭和四十六年十一月十日
最後の作物 落花生をとり入れ終り
ふっと淋しく涙ぐむ心に
手はそっとこの黒土を握りしめていた。
サヨナラ
木の根
有難う この畑
いつ又 来られるかわからない
でも 土を少し貰って行く

目をつむると 子供等の幼い頃がはっきり浮かぶ。
菜の花の咲みだれる畑をつっきって自転車で力いっぱいこいで行ったっけ。
菜種畑の花の上に頭だけチョンチョン見えかくれして
トウモロコシ畑が育つ頃は子供等を見るのに見通し悪くなってしまって
考え乍らトウモロコシをまいたっけ。
夏のスイカは美味しかったっけ。正が特に大好物で夏はたのしかった。
トマトもよく出来たっけ。柿も随分できたっけ。クリも食べ切れなくて出荷する程とれたっけ。
サツマ芋も美味しかったっけ。
落花生はほとんど一年中食べていたっけ。
小豆もよくとれて冬はぜんざいよく食べたっけ


↑ひっそりと飾ることなく、むしろ上品な感じのたたずまい。この歴史館が成田空港のそばに建てられたことは、ほんとうによかったとおもいます。わたしを含め、成田空港の歴史を知らないひとはいっぱいいるはずだから。ここでなにがあったのか、を残すことは重要です。

資料室に尾瀬あきら先生の「ぼくの村の話」というコミックスが全巻置かれていました。ちょっとだけ手にとって読んでみたら、腰を落ち着けてじっくりと読んでみたくなりました。時間がなくてこのときは断念しました。買って読もうとおもいます。

電子書籍版「ぼくの村の話」はこちらから立ち読みができます。